「もう一人の自分」
23歳から16年間過ごした鈴鹿病院。集団生活という理由で、規律が厳しくて、ストレスが貯まる毎日が、すんげぇ嫌だった。
自分より先に病気が進行して行く病棟の仲間を見て、自分を慰めたり、呼吸器が必要になるのはいつ頃だろうか?気管切開はいつ頃だろうか?などと考える毎日だった。
そんな自分がとても嫌で、そこから解放されるのは「きっと死ぬ時だろうな」と思っていた。
僕の親友は、「気管切開をすると、喋れないし、ご飯を食べたり水を飲んだりできなくなる。そんな自分を受け入れることはできない。」って、勇気を持って旅立っていった。
僕自身も、いつの間にかそう考えるようになっていました。
そんな中での2月4日の出来事は、夢でも幻想でもない。確かな現実。
「喋れなくてもご飯が食べられなくても一生懸命に生きたい。」という気持ちになったのは、自立生活で、考え方が変わったのかな?
自分より先に病気が進行して行く病棟の仲間を見て、自分を慰めたり、呼吸器が必要になるのはいつ頃だろうか?気管切開はいつ頃だろうか?などと考える毎日だった。
そんな自分がとても嫌で、そこから解放されるのは「きっと死ぬ時だろうな」と思っていた。
僕の親友は、「気管切開をすると、喋れないし、ご飯を食べたり水を飲んだりできなくなる。そんな自分を受け入れることはできない。」って、勇気を持って旅立っていった。
僕自身も、いつの間にかそう考えるようになっていました。
そんな中での2月4日の出来事は、夢でも幻想でもない。確かな現実。
「喋れなくてもご飯が食べられなくても一生懸命に生きたい。」という気持ちになったのは、自立生活で、考え方が変わったのかな?